利尻山

★高齢者の仏教    「苦の滅却法」

四諦説

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  (しったいせつ説)

・それでは、釈迦の苦の滅却法である四諦説とは、何なのかを調べてみましょう。


*四諦たいとは=明らかにするという意味。四つの側面から苦を観察することを意味しています。

・釈迦の世界観は、この世は、何もない無の世界で、そこに「因果の因縁」で存在する世界がある。
・この因縁の世界も、縁が切れれば消滅し時の流れで消え去る、無常の世界である。

・人の世には、さまざまな苦が伴い、その「苦の因果」と共に、人は苦しんで生きていると伝えた。
・人はこの「苦の因果」に、どう向き合い克服すればよいのか、それを教えてくれたのが『四諦説』です。

この四諦説は、釈迦の仏教理法の中でも、四法印と共に最も重要な教えです。

・四諦説には、四つの理法「苦諦説・集諦説・滅諦説・道諦説」があり、それぞれ事例を挙げて詳しく諭されています。

・この教えは、最初の説法で説かれたもので,仏教の実践的原理として。大変重要視されている教えです。 釈迦は、法話や対話の中でよく話されています。

・その考え方は、現代風に述べると、苦を病気と置き換え、どのような病気になったのかを調べるのが「苦諦説」・その病気の原因を調べるのが「集諦説」です。

・その病気を治すのが「滅諦説」・病気にならない方法を諭したのが「道諦説」と解釈すれば、大変わかりやすく理解しやすいと思います。

・2500年も前に話された釈迦の教えは、現代の医学でも同じ解明方法でした。現代医学の治療は身体で薬と手術ですが、

・釈迦の治療は心の治療です。そのため「心から苦」を取り除くのは、あくまで自分自身の力で取り除くしかありません。

・それで、釈迦は自分自身の力で取り除くためには、己の心の修行が大切で、法を信じ精進しなさいと説諭しています。


 (くたい)説とは

人は、苦の苦しみと共に生きていて、自分の思うまま欲するままに生きれないと説いたのが『苦諦説』です。

・人は、生き続ける中で様々な苦しみが生じ、その苦と共に生きています。
・苦には「生老病死」の大苦を始め、実に大小さまざまな苦があります。

・たとえば、怨(うら)み、憎(にく)むものとの出会いで生まれる苦や、愛するものとの別れの苦、
・思いや望み通りにならない苦や、身体的欲望の苦、また妬みやさげすみ、迷いからも苦は生まれます。

「苦諦説」では、人の苦には、さまざまな苦があることを説明しています。

・「すなわち、生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。怨うらみ憎にくむものに会うのは苦である。愛するものに別れるのは苦である。求めるものの得られないのは苦である。一言にしていえば、人の存在はすべて苦なのである。」と釈迦は述べています。

・釈迦の「四苦」の中の「生きる苦」を、まとめてみますと四つの大苦があります。

 ⑤怨憎会苦 (おんぞうえく)  怨み憎むものとの出会いの苦。 
 ⑥愛別離苦 (あいべつりく)  愛するものとの別れの苦。      
 ⑦求不得苦 (ふぐとくく)   求めるものが安易に得られない苦。  
 ⑧五陰盛苦 (ごおんじょうく) 五体から生じる欲望の苦などをあげています。    

・そのほか、苦は108種あるらしいのですが、基本の苦「四苦八苦」だけを書きました。


・人には実に、さまざまな苦があるのですが、人によっては同じ苦でも、受け止め方や傷つき方が異なります。
・それは人には「心の耐性力」があり、この耐性力で、苦に対する認識と対応の違いが生まれてくるようです。
・現代風に言い換えると、苦とは「ストレス」で、このストレスに強い人と弱い人がいると言うことです。

釈迦の苦の滅却法とは、このストレス状態に対応できず「にっちもさっちも」いかなくなった時には、心を落ち着かせ、その苦が生まれた因果(原因)を考え、対処しなさいという教えです。

その因果(原因)を述べたのが集諦説です。


 (じつたい)説とは

「集諦説」では、苦がなぜ生まれるのかを説明しています。

・人が病気になれば、その原因はウイルスや細菌に犯されて体が傷ついているとわかりますが。
・人の苦も同じで、その因(原因)は、人の心の奥底にある『煩悩』から生まれると釈迦は述べています。

・煩悩とは何なのでしょうか。

・心の無意識界に存在する「苦の元基」で、この煩悩に炎が灯ると活動を始め意識界の心を始め、体までその炎で焼き尽くす。
・煩悩は、人の執着心や欲望心と諸々の妄念妄執心を糧として生まれるらしい。

・釈迦は、人の心の奥にある根強い執着心と欲望心の願いが、かなわぬ時、心の中の『煩悩)』という悪しきものに炎を灯す。・この炎は、人の体や心を乱し惑わせて「苦」を生んでいる。

・一切のものは絶えず消滅し生成する理法があるにもかかわらず、人は所有欲や執着心にとらわれて生きている。

・煩悩は、世の理法(真理)を知らない「人の無明心」から生まれるもので、無明心から苦悩が起きている。

・心の『無明心』に、光の灯をつけることが何より大切で、修業を怠るなと釈迦は説いています。


・特に人の『煩悩』の中で悪しき、3つの代表的な煩悩を述べています。

貪(とん)= 自分の好むものをむさぼり求める、貪欲(どんよく)という煩悩 (欲の深さの心)
瞋(じん)= 自分の嫌いなものを憎み嫌悪する、瞋恚(じんい)という煩悩  (怒りの心)
痴(ち) = 迷い惑って行う愚痴(ぐち)ばかりをいう。愚痴という煩悩   (考えない心)

・煩悩という言葉は仏教語ですが、煩悩には大小あわせて108つあるらしい。

・しかしこれらの煩悩も、心を落ち着かせてよく考えて顧みれば、この三毒は三薬にもなる。

・西洋のソクラテスは、私は何も知らなかったことを知ったと述べ『汝自身を知れ』という言葉を残しましたが、釈迦の『無明心』も、同じことを説いているのかも知れません。

・釈迦は、すべての欲を捨てろとは述べておらず、煩悩に炎の火を灯す「強欲」を捨てろと諭しているのではないかと思います。

・昔も今も、人は物質欲や所有欲、名誉欲を求めて激しい競争を続けて来ました。
・そしてこの欲望心が、社会を発展させてきたと賞賛しています。

・しかしこの欲望心が、どれだけ多くの人々を差別し、悲劇を生んできたのかはかり知れません。
・また欲望がかなわぬ時、人はその原因を他人の責任にしたり、外的要因にして怒り苦しんでいます。

・釈迦は、人の苦の原因を「己の心の問題」として捕らえ、他人などの外部的要因に求めていません。

・釈迦の諸行無常の世界では、高層ビルが建ち、物質的な豊かな社会も仮の姿です。
・釈迦が求めた人の幸福な生き方は、物少なく欲少なく、自然と共に暮らし、心静かに落ち着いた平和な暮らしです。

・ここが西洋思想と東洋思想の大きな考え方の違いとなっているようです。

・本論に戻りますが、
・釈迦の集諦説では、人を悩まし煩わせる苦は、己の欲望心から生まれる「煩悩」によって引き起こされている。

・無明心に明かりを灯し、その苦の因(原因)を明らかにして苦をとり除くというのが『集諦説』です。

・難しいので略図を書いてみました。



 (めったい)説とは

「苦」を消滅させて、心に安らぎと平安を戻す方法を説いたのが「滅諦説」です。

・釈迦は、苦の原因を明らかにし、そこから起こる「煩悩」の炎の火を消すと、その「苦」が消滅し心に安らぎと平安が戻ると説きました。

・「煩悩」の炎の火は、どうやって消すのでしょうか。

・それは、己の心を統一して、心を乱さないで心に清風の風を起こし、煩悩の炎を吹き消すと言うことです。

この清風は、瞑想によってつくられます。

・瞑想では、煩悩の炎を消すため、己の心を統一して心を乱さず、清らかな風が、心と体に流れることに心がけて行うことが大切です。

・瞑想は、清らかな風が心に流れるために、英智をもって精進しなければなりません。

・清風が生まれると、やがて煩悩の炎は消え去り心も穏やかになり、心にも平安が戻り、安らぎも生まれます。
・このように、心を静め心が穏やかになれば、清風が心に流れ『煩悩』の炎が消え去ることを釈迦は教えてくれました。

・怨み憎むものへの怒りの心を静めよ。
・愛するものとの離別の悲しみの心を静めよ。
・己が求めるものへの欲望の心を静めよ。
・五体から生じる欲望の心を静めよ。

・迷いが生じたなら、心静かに目を閉じ苦諦の因を思い、煩悩になぜ炎がともったのか思い巡らし、己の心の中の執着する諸々の欲を捨て去ることに務めることである。・これが自己の鍛錬で自己の修業である。と述べています。

釈迦の仏弟子達は、そのため毎日、心静かに瞑想をして修業をしています。


 (どうたい)説とは

人の心の奥底にある諸々の悪しき欲望を目覚させず「苦」を生じさせない生き方をを説いたのが『道諦説』です。

・道諦説では、苦が生まれない平安な日々を送るためには、人は、どのような生き方をすればよいのかを述べています。

・それは、日々心がけて精進する八正道の道です。

八正道とは
・正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つを心がけて生きるという教えです。

 (はっしょうどう)


 1.正見 = 正しく物事を見こと。     (五感を使って物事の本質を見る)
 2.正思 = 正しい思考を心がけること。  (何が正しいことか否かをよく考える)
 3.正語 = 正しい言葉で話し嘘をつかないこと。 (嘘をつかないよう心がける)
 4.正業 = 正しい行いを心がけ、悪行を行わないこと。(良い行いをするよう心がける)
 5.正命 = 規則正しい生活を心がけること。 (規則正しい生活をする)
 6.正精進=何事も日々努力を行うことを心がけること。(日々精進する)
 7.正念 = 正しいことを心に思い、悪しき心を捨て去ること。(正しい考えをもち、悪しき火を灯さない)
 8.正定 = 正しく精神を統一し、迷いを滅することを心がけること。 (瞑想をして心に清風を流す)

・この「八つの正しい道」を心がけて日々歩めば、人につきまとう苦悩は滅び心の平安が得られて、涅槃(ニルバーナ)に達することができると釈迦は諭した。

「八正道」とは、お釈迦様が示した、人が守るべき八つの道です。
・仏教徒が、毎日心がけて守らなければならない、8つの決まりともいえます。

・書けば簡単な「八つの道」ですが、いざ実戦すると大変な道で簡単ではありません。

・釈迦の弟子である修行僧たちは、毎日この「八正道」を心がけて実践しています。
・正命の道でも、規則正しい生活をするだけではなく、食事を見ても、食べ方から始まり食材まで、各宗派によって細かい決まりがいろいろあります。

・われわれ庶民には、厳しい実践はなかなかできませんが、日々正しく物事を見て、嘘をつかず、正しい生活を心がけて生きていけば良いと思います。

・そんな曖昧(あいまい)な言葉を言うなと怒られますが、

・安心してください。お釈迦様は、何事も偏(かたよ)らず物事を行うのが良いと教えてくれています。
・それが釈迦の『中道説』です。


 (ちゅうどうせつ)とは

・人の心や行いは、張りすぎてもいけないし緩みすぎてもいけない。という教えです。
・「ほどほど」とか「真ん中」という意味とは少し違います。それらを含めたもっと大きい意味です。

・琴の弦は、緩みすぎても張りすぎても良い音は出ません。
・それぞれの琴には、良い音の出る弦の張り方があります。

・その琴の弦の張り方を釈迦は「中道(ちゅうどう)」と述べたのです。

・大切なことは、良い音のする琴の音で修行を続けていくことです。これが釈迦の『中道説』の真意です。

・人も同じで、がむしゃらにがんばっても、なまけてもいけない。
・琴の弦と同じで、人は、それぞれの己の「中道」を見定めて精進しなさいという意味です。

・もう一つ、釈迦の教えを説明します。この世の事象(じしょう)には、二つの面があるという教えです。


 (じしょうのにめんせい)とは

諸行無常の世界で、縁あって生まれて存在している事象は、それぞれ二つの面をもって存在しているという説です。
・二面性とは、そのものが内包する相対する二つの性格のこと (広辞苑)

・具体的に述べますと、上があれば下がある。下があれば上がある。
・失う物があれば得るものがある。得るものがあれば失う物がある。
・夜があれば、昼がある。昼があれば、夜がある。という説です。

・釈迦は、物には、上があれば下があり、上が見えれば下は見えず、下が見えれば上は見えず、右が見えれば左が見えず、左が見えれば右は見えず、表が見えれば裏が見えず、裏が見えれば表は見えず、得るものがあれば失うものがあり、失うものがあれば得るものがある。

・人は、己に都合の良い一面しか見ず、そのため失ったものを嘆き悲しんでいるが、失ったものがあれば、得るものもあると釈迦は説いたのです。

・難しいので具体的に述べます。

・パラリンピックの大会が開かれています。
・事故で下半身麻痺をした女性が競技に参加し、満面の笑顔で歓びを表していました。
・事故の時は落ち込んでいたに違いありませんが、いまは、その失ったものを取り戻すことができたのです。
・嘆いているだけでは生きていけません。失ったものがあれば、心し努力すれば得るものも必ずあるのです。

・事象の二面を見るのには「心の目」で悟れと言っています。「心の目」とは心眼、つまり第三の目です。

・第三の目は、難しいのですが、確かに世の中は二面性の社会です。

・例えば、宝くじでお金を得た人がいれば、宝くじでお金を失う人もいますし、光と影、陰と陽、善と悪など、二つは常に存在しているようです。


 (じひのこころ)

・釈迦の根本思想は、この世界は「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」の世界観から始まります。

・釈迦の世界観の中で、この世界は「因・縁・果」のつながりで存在している世界であり、それさえも何もなかったように変化し消滅を繰り返している。これが真理であり理法であると説きました。

・目に見えるもの、聞こえるもの、触れるものもそれ故「幻の仮の姿をしている」だけだとも諭しています。

・しかし我々人間に、この世界は「幻の世界」だと言われても現実に人間は生きています。
・たとえ生まれて死ぬまで、一時(いっとき)の仮の姿としても、心乱れることなく平安な暮らしを望みます。

・釈迦は、生きている人間には「四苦」がともなうことを話していますが、人にはそれ以外にも様々な苦が存在して「四苦八苦」しながら生きています。

・釈迦の「四諦説」の教えをまとめると
・釈迦は、苦とは何なのか、苦はどんな因縁で生まれてくるのかと説いたのが釈迦の「苦諦説と集諦説」です。

・四諦説の中で「苦」を消滅させて、心に安らぎと平安を戻す方法を説いたのが「滅諦説」です。
・さらに「苦」を生じさせない人の生き方と修行の方法を説いたのが「道諦説」です。

・釈迦は、様々の苦の実態を「四諦説」の中で説明し、その「苦の滅却法」を教えてくれました。

なぜ、教えてくれたのでしょうか?

・それは「苦」の苦痛で、人々の人生が失われないために諭してくれたと思います。

「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。」と釈迦の深い『慈悲の心』があったからだと思います。

・いかなる生物生類(いきものしょうるい)であっても、怯(おび)えているものでも、強剛(きょうごう)なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細(びさい)なものでも、粗大(そだい)なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようとするものでも、 一切の生きとし生けるものは、幸(しあわ)せであれ。         スッタニパータ146~147

・釈迦の慈悲の心は、人間だけでなくすべての生き物の「幸せ」を願っていたということです。

・このすべての生き物の「幸せ」を願うという思想は、西洋の宗教思想にはありません。
・個人主義が横行する現在、自分さえ家族さえ幸せならば良いとする西洋的思想が日本にも流れてきています。

因縁説を重視する釈迦の教えは、小さな虫や木や鳥や花までもが己の存在と縁で結ばれており、それらが不幸ならば、己も不幸であり、それらが幸せならば、己も幸せにつながると述べています。

この釈迦の『慈悲の思想』こそが仏教最大の教えであるとして大乗仏教が生まれました。

・特定のものだけが幸せであれば良いとする西洋的思想と大きく異なる思想です。

■・宮沢賢治は、『銀河鉄道の夜やグスコーブドリの伝記』の中で
・すべてが他人事で、自分ひとりの利益を求めているだけでは、「みんなのほんとうのさいわい」は得られない。また「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と書いています。
 *世界=すべての生き物の世界という意味

・知恵を持って心の眼で見ることは生きる上では大切です。

・長くなりましたので「釈迦の教え」はここで終わります。

・高齢者になってから学んだ釈迦の思想です。
・間違いもあり、意味不明なところもあってわからなかったかと思います。
・興味があったら調べてください。まだまだいろいろな教えが沢山あります。


    

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