★高齢者の仏教 「釈迦の生涯」
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・釈迦は、紀元前566年4月8日にインドの釈迦族の王子として生まれました。
お母さんは、摩耶(マヤ)夫人です。(隣のコ-リ国の王女でした。)
・王子として生まれた釈迦は、なに不自由なく暮らします。19才の時には隣の王国コ-リ国の「ヤショダラ王女」と結婚して息子「ラフラ」も生まれました。
・しかし、いつも何か満ち足りないものを感じていた釈迦は29才の時、住まいのカピラ城を抜け出し妻と子を捨てて出家をします。 *出家=修行僧になること
・出家した釈迦は、6年間バラモン僧として「難行苦行」を行いましたが、やはり心の平安がえられませんでした。
・すべてを捨てて修業してみましたが、心が求めるものを得ることはできませんでした。
・そして難行苦行は、私が求める道ではないと悟ります。
・釈迦はあきらめて、川で身を清め、ぼんやりと川べりに座っていました。
・そこへ、村の娘スジャータが通りかかり、痩せこけてうつむいている釈迦を不憫に思い、持っていた牛乳粥をさしだします。
・釈迦はバラモンの修行では生ものを口にしてはいけないことになっていましたが、素直にその行為を受けて牛乳粥を口にいれした。
・すると釈迦の体に生気が宿り、釈迦は、そのまま菩提樹の木の下で瞑想を始めます。
・やがて長い夜が明け、目覚めた釈迦は世の中のすべての事象を理解することができ、心にも安らぎが宿り、悟りの境地に達してついに解脱を得ることが出来ました。釈迦、35歳の時です。
・悟りを得た釈迦は、その後もしばらくは木の下で瞑想を続けます。
・悟りは、森羅万象の世界のしくみと、縁起と十二因縁・中道と四諦と八正道などの世の中の真理を悟り、人々を苦しめているすべての苦から「解放される方法」を悟ったのです。
・釈迦は、これらの悟りを人々に話しても人々の常識に逆行するものでとても難しく
・「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろう」と考え、この悟りを人々に伝えずにおこうと考えたと言われています。
・すると釈迦の前にバラモン神の梵天が現れ、釈迦に繰り返し、人々に説くよう強く話されました。 (梵天勧請)
・釈迦は、世の中には煩悩の汚れの少ない者もいるだろう。そういった人たちに、教えを説けば理解ができるだろうと思いなおし、釈迦が悟った真理を伝えることを決意します。
*梵天=古代インドバラモン教の神で宇宙の根源とされるブラフマンを神格化した神
*宇宙の創造神。聖なる力を持つ。
・4つの顔、四本の手を持ち水鳥ハンサに乗って移動する。
*煩悩=心身の苦しみを生みだ人の欲望のこと
・釈迦から最初に教えを聞いたのは、かって釈迦と苦行をしていた5人の修行者たちです。
・彼らは、釈迦が苦行修行をあきらめたので釈迦をさげすんでいましたが、釈迦から教えを聞いて修行し、やがて悟りを得て阿羅漢となります。
・さらに、釈迦族の王子や人々が弟子になります。弟子の中には、妻や子も含まれていました。
・女性の最初の弟子は、釈迦の育ての親であり、母親マーヤ夫人の妹 「マーハパジャーパティ」です。
・その後、釈迦の教えを受ける人々は年々増え続けていきます。
・仏教教団は、やがてガンジス河中流の全域に広がって行きました。
*初転法輪 (しょてんほうりん)とは、
・釈迦が、5人の弟子たちに最初に説いた法(真理)から言われています。
・最初に説いた法(真理)とは・・ 「中道説・四諦説・八正道」などです。
・仏教が広がった理由は幾つかあります。
・当時のインド宗教であったバラモン教がカースト制の身分差別を行っていた。
・釈迦は、人々はみな「平等」に生まれてきたと説いたので、差別に不満を持った人々から支持されたこと。
・マガダ国のビンサラー王が夫人と共に釈迦から教えを受け、仏教に帰依したこと。
・釈迦の入滅後ですが、インドで最初の統一国家を築いたマウリヤ王朝の「アショ-カ王」も、仏教に改宗して極めて熱心に仏教の擁護者となったことなどあげられます。
・釈迦は、遊説し説法することもありましたが、
・多くは、霊鷲山や竹林精舎と祇園精舎に滞在して、訪ねてきた多くの人々に教えを説きました。
アショカ王が建てた仏塔
■・マウリヤ朝「アショ-カ王」とは
・アショーカ王は、マウリヤ朝の第3代の王。 漢訳では「阿育王」と書かれる。
・インド亜大陸をほぼ統一した王です。(紀元前232年死亡)
・釈迦の入滅後、およそ100年後に現れて、古代インドにあって仏教を守護したことで知られています。
・アショ-カ王は、インド統一に当たり多くの人々を殺してきた。
・その罪にさいなまれていたが仏教に帰依し善行を行った。
・仏教帰依後、アショーカ王は国内に道路を建設し、井戸を掘り、病院や薬草園を造るなど民衆の生活の安定を図ったことで知られています。
・ブッタガヤーの「菩提樹」の木の下で、悟りを得た釈迦はその後45年間、民衆にやさしい言葉で説法を続けました。
・80歳になった釈迦は、故郷のコーサラ国に戻ることを考え、弟子のアーナンダをつれて、托鉢(たくはつ)と説法を続けながら故郷を目指して旅を続けます。
・途中のパーヴァー村の鍛冶屋でもらった食事のあと激しい腹痛を訴え、川で沐浴して「沙羅双樹 (さらそうじゅ)」の木の下に横たわって、そこで入滅しました。(80歳でした。)
・【釈迦の最後の言葉】
・「アーナンダよ、悲しむなかれ嘆くなかれ・・
・私は説いていたではないか、最愛でいとしいすべてのものたちは、別れ離れになり別々になる存在ではないかと法を守り精進しなさい。」と泣くアーナンダを諭した。
・釈迦は、自分の遺体は火葬し、その灰を川に流すよう弟子達に伝えたが、信者たちはその教えを守らず聖者の灰を持ち帰り、その後、各地にその骨を祭って仏舎利塔を建てます。
・釈迦の入滅後、約500年の間にインドの仏教界は大きく変わりました。
・たとえば釈迦の教えでは、出家者と在家者と男女の区別はなく、信仰者はみな「仏弟子」でしたが、仏教教団は、その後、在家者と女性を「仏弟子」から除外します。
・また釈迦は、その地域で話されている言葉を使って説いていましたが、教団はサンスクリット語に統一したため、釈迦の説諭の翻訳に違いが生じました。
・さらに仏教教団の指導者は、信徒たちに莫大な布施を要求するようになります。
・やがて釈迦の教えを守らず、教団に都合の良い解釈をしていき、釈迦の教えはしだいにゆがんで行きます。
・その後、仏教教団は、上座部仏教(小乗仏教)と大乗仏教に分裂をして解釈を巡り教団内部で争いが起こります。
・こうして、釈迦の説く仏教の教えは、しだいにインドから消滅していきました。
・仏教は、インドから消えてしまいましたが、仏教はインドの外側世界に広がって行きます。
・仏教は、やがて東アジアと東南アジアに広まり、千数百年間にわたって多くのアジアの人々に信仰されていきます。
・日本も、その教えに影響を受けた国です。
・東南アジアへは、スリランカをへて伝播します。
・中国へは、紀元2-3世紀頃にシルクロードを経て伝播したと言われています。
・日本には538年に朝鮮の百済から「釈迦像と経典と仏具」が来て、仏教の信仰が始まります。
・こうして仏教の教えはアジアの人々に大きな影響を与え「東洋思想」の根幹となりました。
・【大乗仏教の国】
中国・朝鮮・日本・ベトナム
・【上座部仏教の国】
スリランカ・ミャンマー・ラオス
タイ・カンボジア
・【チベット仏教の国】
チベット・ブータン・モンゴル
・仏典では死期が近くなった釈迦を見て不安になった弟子が、これから何をたよりにすればいいのかと釈迦に尋ねたところ、
釈迦は、
・「今でも私の死後でも、誰でも己をたよりとして、他人をたよりとせず、法をよりどころとし、他のものによることなかれ」と語ります。 (自帰依と法帰依です)
・アーナンダよ「犀の角のごとく力づよく歩め」とも語ります。
・さらに悟りを得るというのは、真の己に目覚めることであり、法(真理)に目覚めることです。
・そこには、最高の境地が開けると語りました。
・釈迦の悟りとは、
・穏やかな生活をするため「心の平安」を得ることが修業であり、それが己に目覚め、法(真理)に目覚めることであると、述べているのか・・・。
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